確か、3カ月くらい前の話だったと思う。
その日は先輩と酒を飲む約束をしていたので、新宿へ向かった。
少し早く着いてしまったので電器屋でプリンタの値段を調べてから、待ち合わせ場所へ向かった。
待ち合わせ場所には、先輩と見たことのない女の姿があった。

誰だこいつは。
明らかに先輩や自分とは同年代ではない。20代後半の見た目だ。5,6は年上だろうか。
とりあえず誰か聞かないといけなかったのだが、先輩に「この人は知り合いの○○さん」と紹介されてしまったので、聞くタイミングを逃してしまった(後に、先輩がナンパで引っかけた人だということがわかったのだが)。
居酒屋へ行き、意味のわからない3人で飲み会がスタートする。

女はほとんど喋らなかった。ときどき相槌を打ったり、先輩と俺の話の合間に質問をしてくるだけで、自分のことはほとんど喋らなかった。
そういう人なのかなと思って、あまり気にも留めなかったし、もし先輩の彼女であったとしたら色々聞くのは失礼と思ったからだ。
90分ほどで、急に先輩が「俺もう帰るわ。お前らは?」と言いだした。
まだ10時だぞ。もう帰るのか。
女はまだ飲みたいと言っていた。自分もまだ飲み足りなかったので、二人で飲むことになった。これが地獄の幕開けだったのだが・・・

ユニクロの隣のビルにある、日本海庄やに入る。
二人でビールを頼み、刺身と焼き鳥を頼む。
最初からぬるい刺身を食べながら、女のことを少しずつ聞く。
彼女は27歳で、今は無職のようだ。
パチンコと競馬が好きなようで、持っていた鞄の中には競馬新聞が入っていた。
俺は競馬には全く興味がないが、話をふくらませるために競馬についての質問をいくつかした。
すると女の目の色は途端に変わり、堰を切ったように競馬の話をし始めた。
俺は鏡の役をしているのか。そう思った。
人と話しているときの熱気が相手から伝わってこない。
ただ、盲目的に自分以外の誰かを欲している。そんな気がした。
つまり、この日本海庄やのソファーに座っている男は、誰でもいいのだ。
俺ではなく、ほかの誰でも。
わけのわからない競馬用語が流れ込んでくる。
ああ、はいと相槌を打って、満喫で飲み残したコップの水をシンクに流すように、ただ聞き流していく。
それでも女のトークは止まらない。
僕が話に興味がない事など、まったく眼中にないようだ。
ただ目の前の男に対して、自分を垂れ流している。
それが、何も生み出さないことと気づかずに。
喉が渇いてきたので、女の飲んでいるグラスに手を出して、ビールを飲もうとする。

「何でよ!?」

拒絶された。やっと人間らしい反応を見せた。
拒絶するときにしか、自分が産んだ反応を見せないというのが、ものすごく悲しかった。
後からわかったのだがこの女は、自分のテリトリーに侵入されることをものすごく嫌うらしい。
トイレで席を立つときも、自分と体の位置が近くなると露骨に体をそらす。
なぜテリトリーに侵入されるのを拒むのだろうか。

他人を盲目的に求めているのに。
アルコールで回らなくなった頭に、そんなことがぼんやりと浮かぶ。

女がトイレに立つ。
立った瞬間倒れる。相当酔っているようだ。
時間は午後3時。
もうこの女は飲めそうにないし、吐かれると困るので、下の階のカラオケで寝る事にした。
カラオケに入り、すぐ「何か歌ってよ」と言われる。
何を歌ったのか、よく覚えていない。
サビが終わって女を見る。寝ている。
俺だって眠い。こんな女のために歌ってしまった。しかも寝ている。
なんのために歌ったのだろう。
すぐに演奏を停止し、俺も眠ることにした。

浅い眠りにつく。

90分ほどで目が覚めてしまった。
強烈な不快感がある。頭の中に腐った果実が実っているようだ。
女を見る。
涎を垂らして寝ている。涎が垂れて、袖が濡れている。
ぼーっと女を見つめる。
ほどなくして女が起きた。
「今何時?」
「5時少し前です。もう電車出てますよ。」
「・・・」

返事がない。
袖を見つめている。

「濡れてるんだけど。」
「寝てて涎で袖を濡らしてましたよ。」
「・・・」
「・・・」
「臭い!」
「はぁ!?」
当たり前だろうが。


「女の子といてエッチな事したくならないほうがおかしい!あんたぶっかけたでしょ!?」

もう何も言えない。

「はぁ!?そんな事するわけないでしょう!?」
「袖が臭い!」

怒るべきなのだろうが、もうそんな気力は一切沸いてこない。
どうすればいいのだろうか。
女が部屋を出て、どこかへ駆け出していく。
なんなんだ一体・・・
何かされたら困るので、追いかける。
女はフロントにいた。

「この人にいやらしいことされたんです!警察呼んでください!」
店員も困っている。
「僕は何もしていないです。なんならカメラを確認してください。」

「それでは防犯カメラのほうを確認しますので、少々お待ちください・・・」
店員と防犯カメラを確認する。
何倍速かで映像が流れていく。
入ってから出るまでの映像が、10分ほどで流れる。
「あの、カメラの映像を見たとおり、お連れ様は何もしておられませんでしたが。」

「ふざけんじゃねえぞお前」
思わず乱暴な言葉が出る。
「ごめんなさい。ごめんなさい。」
女が頭を下げて謝る。もうどういう気力も俺の中には残っていなかった。
「もういい。出ろ。」
二人で店を出る。
タクシーを拾って、女を入れる。
3000円を車内に放り投げて、駅へ向かった。後ろは振り返らなかった。

山手線の下りに乗る。
向かいのホームにはスーツの群れ。
ガラガラの車内に座ったとき、情けなくて涙が出た。
自分はなんのために話を聞いていたのか。
なぜ一瞬でも、この女の事を理解しようとしたのか。

何のために自分はあそこにいたのか。
何のために新宿にいたのか。
自分のしてきたことはなんだったのか。
向かいのギャルが怪訝な目で俺を見ているのも考えず、俺は泣いた。
何かを奪われた。そんな気がした。
奪われたのは3000円ではない。飲み代でもない。
これからずっと、この事は忘れられないだろう。
毒蛇に噛まれた気分だ。

毒蛇が、細い路地から睨んでいる。
闇夜と同じ色のコートを着て、目だけを光らせてこちらを伺っている。
孤独という隙間からするすると、俺たちの心に入り込んできて、毒を流し込んで去っていく。そんな気がした。
この毒に効く血清はあるのだろうか。
あるとしたら、無味無臭で、水と見分けのつかないものだろう。そんな気がした。

家のベッドで今日のことを振り返る。
もう何もコメントできない。どういった気力も、自分の中には残っていない。
左手が不愉快に痺れている。
もうだめだ。少し眠ろう。
強烈な不快感の中、質の低い眠りについた。