この記事の続きになります。


向こうはこちらのことを、自分が捕らえた獲物のように思うからだ。バケツの中の魚を取り出して友達に見せて自慢する子供みたいに、由真を捕らえた自分の腕前を周囲に自慢しようとする。なぜ自分が捕らえられた獲物だと思わないのか、さっぱりわからないが。

「ガマズミ航海」村田紗耶香 より




ターゲットを引き付けることには成功した。
次は、価値観を引き出していく。
家族構成や友達の話などを引き出していくと、彼女には被虐待暦があるのではないか、という感じがした。
父親の話をするが、どうも様子がおかしい。

常識的に考えて、父親が悪いと思える話を「自分が悪い子だから、父親は自分を治そうとしてやってくれている」といった感じで話している。
話しぶりがDV被害者にそっくりだ。
おそらく間違いないが、それをどうやって検証するか。


壁にかけていた上着から、ライターを出すふりをして、彼女の頭上に手を上げる。すばやく。
彼女がビクッとして、手で頭をかばった。
間違いない。虐待かDV暦がある。

今思えば、こんなことは確かめる必要がなかった。ただそれは、「自分が虐待暦のあることを見抜ける人間だ」ということをひけらかしたいだけだった。
いつだったか、カウンセラーの大学教授に「君は力を持っているが、その使い方を知らない。力に飲み込まれている。それは単なる悪意よりタチの悪いことであるし、君自身のことも蝕む」 と言われたことがある。
当時は何を言ってるんだこいつは、と思っていたが、やっと気付いた。

一度価値観を引き出すと、彼女は堰を切ったように自分の話をするようになった。
そして、「ここだと大きい声出さないと聞こえないんで、隣へ行きますね。」と言い、僕の隣に彼女が来た。
それから彼女は、ずっと自分の話をしていた。
僕はそれをほとんど聞いていなかった。
聞きたくなかった。いったいどれだけの人がこの話を聞いて、自分なりの答えを彼女に伝えたのだろう。
そして彼女はそれを笑顔で受け止めて、ドブへブチ込むのだろう。

僕が何か言ったからって、彼女がそれを実行することは絶対にないと思っていた。
明日もまた、父親のイジメに耐えて、夜にはその話をして、少し軽くなった気分で布団に入って、朝を迎える。その繰り返しだと思った。
不毛だと思った。自分はそれを繰り返したくなかった。

ただ身体の重心を後ろへ向け、声を低くして相槌を打って、身体の状態を話に聞き入っているときのようにして、聞き流していた。

相手の話を聞いていないときは声が高く、身体は軽く、相槌のタイミングは早い。それと逆のことをすれば、「聞いていますよ」というメッセージを相手に伝えることができる。たとえ話を聞いていなくても。

ふと横を見ると、最初に僕に突っかかってきた男が、他のテーブルに移って、僕を睨んでいる。敵意に満ちた目線を向けている。目が合った。笑って手を振る。
そろそろ何かしてくると思った。
すると急にトランス状態に入って、急に視界が狭まった。
左側の視界がシャットアウトされて、目の前の彼女と、右前にいる男以外、目に入らなくなる。
おそらく、見えてはいる。見えてはいるのだが、知覚はしていない。
携帯に夢中になって、前の電柱にぶつかる」のと同じだろう。電柱は見えているが、知覚はしていない。
左側も見えてはいるが、知覚はしていない。目の前の女と右側の男以外、気をつける必要が無いからだ。

彼女と話をしていると、彼が席を立った。目線は彼女の目を見たままだが、ハッキリとわかる。
何かちょっかいをかけてくるつもりだろう。
彼がこちらに来るタイミングで、彼女に「ごめん、ちょっとトイレ。」と言って席を立つ。
そして右を向いて、男に「おお、急にこっち来てどうしたの?」と言う。彼は不服そうに不自然な笑みを浮かべている。相手の悪意とやりあわずに、うまく戦意を喪失させることができた。

トイレから戻ると、彼はまったく別のテーブルで飲んでいた(知り合いがいたらしい)。
運にも助けられて、完璧な展開になった。


彼女は同性とうまくコミュニケーションがとれないようだった。
それで異性とばかり関わって、さらに同性から疎まれて…といったスパイラルに陥っていた。
セックスもすぐしてしまうようだった。

「その悩みを分析してみようか」 と言ったら、ふたつ返事だったので、飲み会が終わった後でやろうという話になった。
ホテルで催眠を少しやってそのままセックスしようと思ったが、次の日に朝から学校があると言われたので、カラオケで簡単な催眠をかけて信用だけさせて、また後日しっかりやろうという話になった。

1週間ほどメールをして、山手線の駅前で待ち合わせた。
彼女が来た。
「じゃあホテルとってあるんで、行こうか。」と言った。
彼女は黙ってついてきた。ノーグダだった。

ホテルで催眠術をやる。
適当にお茶を濁してセックスするつもりだったが、彼女はとても催眠術が上手かった。
教えたことを一度で理解するし、直感的な部分にかなり頼っている自分の術がどういうものかもわかっていたようだった。
適当に納得させて、相手が満足したらセックスしようと思っていたが、やめた。


当時自分が思っていたことをそのまま言った。
催眠術そのものは生きていくうえで全く役に立たない。
催眠術は、相手を見ること、自分の言葉に力を込めることに収束する。
それを体感できれば、もう少し生きやすくなるかもしれない。
」と伝えた。

彼女はバケモノじみていた。
「言葉に力を込めろ。マクドナルドの店員が言う『ありがとう』と、彼氏に言う『ありがとう』は違うだろ。そういうことだ、言葉に力を込めろ。」
この一言で、彼女は全てを理解したようだった。おそらく、自分よりも。

彼女は今まで会って来たどんな人より催眠術が上手かった。
自分よりも格段に上手かったと思う。
寂しさが自分の中に満ちていて、他人を求めていた。
その他人を求める力が、催眠術の際に強く、言葉に引き付ける力として働いていた。


メンヘラがエロくてすぐヤれる、というのも、おそらくこういうことだろう。
彼女たちは寂しさゆえに、他人を求める。
その求められている気持ちが、所作や声のトーンに現れていて、それが人を引き付けるのだろう。
一時のぬくもりは彼女たちを幸せにすることがないが、それでも彼女たちは求めてしまうし、男たちは引き付けられてしまう。

彼女が疲れた、と言ってベッドに横になった。
自分は何も言わなかった。
ベッドの脇に座ったまま手を取って、それから布団をめくった。


終わった後、二人で色々なことを話した。自分のこと、彼女のこと、催眠術のこと、お互いの悩み。
やるべき事をやった上に、すごいものを見出した。
とても自分は満足していた。
そして彼女に、自分のことがわかってもらえたと思った。

本当にバカだった。この幸せがいつまでも続くと思っていた。
あの時は「食った」と思っていたが、そうではなかった。
自分は彼女に「食われた」。それだけのことだった。


長い上に読み辛くてすみません… あと一回で終わります。